妙光院 風景
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創建以来今年(2002年)で428年
師岡城内に”地久寺院”として
(師岡山城守将景 天正2年11月)
婦 妙光禅尼 没年 天正3年9月26日
法名 地久院月佳妙光大姉
開山以来今年(2002年)で415年
天寧寺第六世 九山整重和尚経供養
山号 地久山 地久寺院を 妙光院 とする
法要風景
「雲龍図」 小林天淵筆 妙光院所蔵
 
 小林天淵(こばやしてんえん 1778〜1863)は、安永7年に青梅の商家に生まれた。幼いころから祖父小峰峯真に書を学び、根岸典則について学問を修め、絵は谷 文晁の門をたたき、青梅文晁と称された。
 雲龍図は水墨画で、天淵73歳のころの作品。ほかに天寧寺杉戸絵の十六羅漢図、住吉神社拝殿天井画の雲龍図(市有形文化財)などがある。86歳で没。
(広報青梅より抜粋)
  歴史抜粋です(各HPより転記しました) 

正確な築城時期は不明だが、鎌倉時代の末期にこの「杣保」(青梅市周辺)を支配した三田氏の居城であった。三田氏は平将門の後裔を名乗っているが定かではない。

室町期の三田氏は関東管領・山内上杉氏の被官として重要な地位にいた。永正六(1509)年には連歌師の宋長が勝沼城三田弾正忠氏宗を訪問していることが「東路の津登」に記されている。小田原北条氏の侵出により一時北条氏の配下になったが、永禄三(1560)年の上杉謙信の関東出陣に呼応して、翌永禄四(1561)年の小田原城包囲戦に参加している。謙信が越後に帰陣したのちは武蔵周辺の豪族の多くは北条氏にふたたび降ったが、三田氏は頑強に抵抗し、滝山城の北条氏照の攻撃を受ける。永禄六(1563)年にはこの勝沼城を放棄、辛垣城に籠城し抵抗するがこれも翌永禄七(1564)年に落城、三田綱秀は太田資政を頼って岩槻城に陥ち延びたが、そこで自刃して三田氏は滅亡した。三田氏滅亡後は北条氏の家臣である師岡山城守将景が入城し、「師岡城」と改称したが、天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となった。




足利時代から戦国時代にかけて奥多摩の杣保を支配した三田氏の、青梅市郊外にある城址である。中世特有の山城というほどのことはなく、奥多摩山地に続く霞丘陵の西端に位置する城跡で、土塁と思しきものがのこっている。かつては石垣もあったらしいが、青梅周辺に産する石灰岩が使われていたため、石灰用に持ち去られてしまったという。

勝沼城の周辺は往古沼地で要害を成していた。この沼にかつみ草(まこも)が生い茂り、かつみ沼と呼ばれていたが築城後は勝沼の地名が生まれた。 □ 三田氏は平将門の後胤と称していた。将門が管掌していた下総御厨は伊勢神宮の神田で、将門を祀る都内の神田明神の名もここから生まれたものといわれる。神田は御田の意味で、また三田とも書き、三田氏の苗字もこれに通じる。
  将門の子孫として千葉氏や相馬氏が有名だが、三田氏は相馬氏から分れたという。しかしそれらを証する確かな系譜は存在しない。それにも関わらず、子孫と将門伝説は多摩地方から国境を越えて甲州の大月にまで分布している。
  とりわけ青梅市内の金剛寺には「将門誓の梅」なる梅ノ木があり、青梅の地名の起源伝説にもなっている。承平年中(931〜938)将門は都からの帰途ここに立ち寄り、鞭かわりにしていた梅の枝を地に挿して「わが願い成るならこの梅栄へよ、成らぬなら枯れよ」と誓ったところ、その梅は芽を出して茂ったが、梅の実は秋になっても青い梅のままだったという。

  この三田氏は鎌倉の関東管領山内上杉氏の元で、青梅市・羽村市・奥多摩町にわたる多摩川上流域の三田谷を領した。元は鎌倉御家人で得宗家の指示よって武蔵国府の在庁管人であったといわれる。国立市谷保の三田氏館跡も、このころのものではないかと考えられる。
  また、正平七年(1352)の笛吹峠(埼玉県嵐山町付近)の合戦には三田常陸守が足利方に属しており、何らかの戦功があってこの地を領するようになったのかもしれない。笛吹峠の合戦は前年の観応の擾乱で足利氏の分裂した隙に乗じて、越後国から新田義興の軍勢が南下し、関東全域を巻き込んだ武蔵野合戦の末、 足利軍が新田軍を撃破した戦いであった。

  確かな資料としてのはじめは、応永二年(1395)三田雅楽介平将定が羽村の一峰院を創建したというのがある。三田一族は信心深かったか、あるいは将門伝説の流布のごとく人心掌握の手段だったのか、三田領内の社寺に対して多かれ少なかれ何らかの関わりがある。

  しかし戦国時代になると小田原北条氏の相模国から武蔵国へ進出し、扇谷・山内の両上杉氏の力は衰え、関東管領上杉憲政は越後へ逃れて長尾景虎の庇護を求める。北条氏は武田・今川氏と三国同盟を結んで関東を席巻すると、それまで上杉氏に仕えていた豪族たちは北条氏に降った。そんな中で上杉氏に忠誠を守って北条氏に屈しなかった者は、上野箕輪城の長野氏と武蔵岩槻城の太田資正が知られるが、奥多摩の三田氏も最後まで抵抗した数少ない一族であった。

  越後の長尾景虎が関東管領職を受けて上杉謙信を名乗り、永禄三年(1560)小田原城を攻めた際には三田氏も攻撃軍に加わった。しかし堅固な小田原城は落せず、謙信が越後へ引き上げると、三田氏は八王寺の滝山城へ進出した北条氏照の威嚇をうけ、勝沼城から数キロ西の奥多摩山地へ入った辛垣(からかい)山頂に築いた詰めの山城へ本拠を移さねばならなかった。
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