TOPへ | 地 域 の 話 ? うそかまことか・・・、皆の記憶のなかから、地域の話? 聞いた話ですので、真意のほども不明なのもあります。 わざわざ調べる気もなく掲載してます。 いや違うよ! もしくは、補強できる というものは連絡ください。 また、こんな話もあるよ! の連絡待ってます。 |
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追分 その2 |
ネット地図 青梅総合病院の西側です。 木崎さんが寄贈したものですね(願主 木崎) 右 大山(富士山のこと) 八王子 道 左 箱根 所沢 道 |
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モノレール 残念!東青梅から 乗れたのに! |
■滝嶋総一郎が計画した武州鉄道 三鷹〜小金井〜小平〜大和〜箱根ヶ崎(西多摩郡瑞穂町)〜東青梅〜名郷(入間郡名栗村) 〜根古谷(秩父郡横瀬村)〜御花畑(秩父市)間、60.3kmの区間を運営する目的で、 滝嶋総一郎が計画した鉄道(未成線)。 ■概要 1959年(昭和34年)1月、地方鉄道法に基づく免許を申請した。 しかし同時期に西武鉄道の西武秩父線と競合する形となった。 そのうえ、基本計画の曖昧さが各方面から指摘され、滝嶋は発起人総代の座を去ることとなる。 1961年(昭和36年)7月に池田勇人内閣の運輸大臣木暮武太夫から免許が交付されたが、 免許工作として滝嶋が岸信介内閣の運輸大臣楢橋渡に賄賂を送っていたことが発覚し、 「武州鉄道汚職事件」とよばれる疑獄事件に発展した。 会社は1962年(昭和37年)10月に代表者を変更して設立されたが、資金調達は不調で、 免許は1975年(昭和50年)度を最後に失効したとされている。 詳細 http://hkuma.com/rail/busyuu.html |
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追分 その2 |
ネット地図 追分シリーズです(笑)入間市南峯の圏央道と八高線の交差するあたり 電信柱と桑の木に挟まれてひっそりと建ってます。 ●●峯村 右●● 左●● 判読不能でした。 このあたり一帯は平地林でうっそうとしていたそうです。開墾され 今は、狭山茶の産地です。 右鎌倉 左江戸 だったたのかな? 今なら 右ヨーロッパ 左アメリカ |
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青梅市史略年表 | 青梅市役所の3階会議室の南側壁面に”青梅市史略年表”があります 詳細は、上の写真をクリックしてください |
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武蔵国多摩郡下師岡村戸数兼絵図面 (古地図?) |
絵をクリックすると拡大表示されます 道路、境、霞川は、見た目で推定するしかないです 推定 明治4年頃 長渕 中村保男家蔵 妙光院を”地久寺”と称するのも地名の”知久間”からも関係するのか? 八番と十番の間の”堂”は、”准肱観音”のこと 今の師岡会館にあります。(上の地図だと”字根岸”の”岸”の字より下側 ”あらた”、”荒田”と言っているのは、”阿羅田”から ”隠居”は、隠居部屋でしょうね 今の道路は、”阿羅田”の”田”あたりから真直ぐ西で、十四番と十五番の間を通って 妙光院の南を通って東青梅六丁目方面へ 二十番の”隠居”は、下記記載の”追分”のとこ 今は、東青梅3丁目 ”隠居”には、付番してあって ”民家”には付番していないということは、 苗字が無い? or 分家? or 水飲百姓? or 税金を払って無かった(当時は、全戸が納税していない) 上記の”堂”が、今の師岡会館に移されたのは、そこが、妙光院の飛び地(管理地)だったから、いまでも、春、夏のお祭りに、妙光院方丈がお経を上げます |
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井戸 | 旧 分校跡地(その後、教員住宅跡地になってしまった)、分校当時から井戸があってセメントのヤグラの上にタンクがあったような気が・・・ すぐ北側の霞川よりだいぶ高い場所でもあり、水までだいぶ深いのではと想像できます。 |
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樫の木 | 現在は、師岡花店の庭です。 妙光院の東側の切通し、昔は当然、切通しではなく山を越える道で、今のT字の信号のある交差点あたりからそのまままっすぐに、この木の前を通って西に通る道路があった。 荷車(リヤカー?)に荷物を積んで、吹上から、お母ちゃんに後ろを押させて、山を越え、亭主はそのまま荷車を引いて青梅の街中へ荷物を運び(あるいは、売って) この木の前で お母ちゃんは、お茶飲みながら、亭主が帰ってくるのを待って そして、荷車の後ろを押して、吹上に帰っていった。 この木は、洞が出来ていて、それでも、なんとか残そうとしています。 通行の地でもあったので、下の方に記載しているように、雹害による対策事業で道を改修したり、みどり橋があった。 |
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ガソリンスタンド | たぶん(間違い無く)青梅市で最初のガソリンスタンド 東青梅駅 北口 約2分 |
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追分 | 追分=三叉路 南無阿弥陀仏の碑 三叉路ですので、碑の両側に道が見えます。 碑の右下の ごみを捨てるな が悲しい! ネット地図 |
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庚申塚 | 師岡会館の入口 庚申塔 庚申塚という方が通りが良いでしょう 昔は、庚申待ち、庚申講(講はこの辺では無かったのでは) |
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青梅市役所から | まだまだ、区画整理計画も始まってないころ、市役所の屋上(2階という話も)から、野上町の方の畑を見て、 「あすこで**さんが畑仕事している」と確認して、やってきたとか! そりゃ、自宅に行っても留守じゃしょうがないので、直接畑へ |
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プラネタリューム | 当時、丸いドーム状の古い建物があったとさ、 昭和天皇が、青梅、御岳に来たときに、それを見て、質問したそうな そこで、似たものってんで出来たとさ |
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霞 川 | あばれ川の霞川、師岡一丁目は、長い間に北へ南へ位置を変えた霞川で出来た沼、そして田んぼだった。 昔昔、今の青梅市検察庁、簡易裁判署の下あたりから、バリューの下あたりまで、がけに沿って霞川が流れていたそうです。(「がけ下」と今でも呼ぶ方がいますが、その名残?) 田んぼを良くするために、その間を、ほぼ今の川の位置に作り変えたそうです。 その名残りか、霞川改修前は、当時掘った土を積んだのか川の南側直近が他より高くなっていたとこもありました。 50cmも掘ると水がでますよね、水脈が浅いのか、水はけが悪いのか また、師岡一丁目とニ丁目の境あたりに水車小屋もありました。 |
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分 校 | 今の青梅市検察庁、簡易裁判署の場所は、第四小学校の分校でした。 1,2年生まで、そこに通い、3年生から第四小学校 分校に通った方も多いでしょう。 不思議なのは、あと約500mで、第四小学校 それこそ、何キロも歩いて通った なんていう田舎の話もあるくらいなのに!!! きっと、裕福な村だったのではないかと想像します。 と、思っていたら、第三小学校の分校として創立されたことが判明しました。 (2006年9月1日)、私は、分校の次に四小に行ったのに! |
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がけ下 | 上記「霞川」での「がけ下」 がけの上は、一般的に「弥生人」が住んでいた可能性があります。水は、がけを下って水汲み 結構重労働 でも、水害対策は、この方法しか無し 「やじり」でも出ないかな??? また、 がけには、あちこちに防空壕が掘ってありました。平和になって、室(むろ)として利用されていました。 中に入って遊んだ方も多いのでは? |
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かつて 神奈川 だった |
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あやしい 天寧寺坂通り |
[成木街道」もあるのに、すぐ東側に「天寧寺坂通り」 山を切り開くってのは、今でも大変なのに、隣どうしに坂って? と思われている方も多いのでは? 「天寧寺坂通り」は、鉄道が通っていたとこです。 昔、枕木を見た覚えはあるのですが 大正七年(一九一八)、浅野セメント株式会社が、黒沢地内より石灰岩が産出される事に着目し、青梅線現東青梅駅付近より、青梅第四小学校、根ヶ布天寧寺横を通り黒沢二丁目の柳内酒店前までに専用線を敷設した。(小曾木近代史より一部引用) 以下 鉄道の話を2題 たまたま、関連するHPも見つけましたので軽い気持ちでリンクしております。 |
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鉄道馬車 その補遺 その補遺2 |
この上の道を 森下から狭山市まで 道の上に線路を引き、その上に列車の車両?を乗せ、馬がそれを引く 鉄道馬車が通っていました。 せいぜい、青梅から大門あたりまでと勝手に思っていたのですが。そんなもんじゃない長さですね これに乗って お嫁 に行った方もあるのじゃないですか? 瀬戸の花嫁 ならぬ 鉄道馬車の花嫁 |
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1本ではない 青梅線 |
地図を見ると青梅線は、1本ですよね=>あたりまえじゃないかって 青梅線は、採掘した石灰を運ぶことを目的とした線でもあり、支線が多くありました。 スイッチバック式のとこまであります。 石灰、多摩川の砂利取り、戦後米軍基地への補給 そして撤去され、今は朝夕の通勤地獄 この近くだけでも、日向和田、東青梅、河辺、小作、福生 |
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かんなんどう とりいど |
かんなんどう 「観音堂」をなまってそう呼ぶようです。 今でも、師岡あたりは、目標物が少なく、道案内に困りますよね。 師岡会館のとこは、観音様がお堂に祭られていて、「かんなんどう」 師岡会館の周り(北側は崖のために除外しているようです)を「かんなんどう」 それより東を「かんなんどう東」 同様に南の方を「かんなんどうむこう」 で、それらの境界はどこか? それらは、家々で違っているようです。 とりいど「鳥居所」は、野上町あたり(バリューのあたり)を呼びます。 春日神社の鳥居が有った? 見える?とこから そう呼んでいるようです。 |
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タイムカプセル | 現在25歳〜30歳くらいの方が、小学生だったころ、タイムカプセルを師岡1丁目児童公園に毎年埋めています。 私が、子供会の会長になったころはすでに、”記憶のかなた”になっていました。 そのころの昔の子供達==同窓会を開いたときに掘りだし儀式をしたらどうですか? そのときは、ぜひ、当時の先生、子供会の会長、そしてプレスを呼びましょう 無事探せるとよいですね!!! |
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妙光院 | 区画整理をした当時、妙光院は、”東青梅”になる予定でした。当時の方々の努力の結果、”師岡”になりました。 感謝!!! |
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番 地 | 師岡町1丁目は北側の東から西へ、次は西から東へ、そして東から西へ 地図で番地を見るとぐちゃぐちゃしているように見えますが 落ち着いてみてみると、番地はすぐに探せます。 |
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妙光院 3題 |
妙光院の不思議? について3題 1.底無し井戸 会館の南側の庭に石組の井戸があります。 竹の覆いがかけてあるので,普段は、「ふうん、井戸があるんだ、使っているのかな」くらいにしか思われません。 でも、覆いの間から中を覗いてみると・・・・・・・・ 2.池 本堂の北側に小さな池があります。 山からの涌き水がたまっているものでしょうが、干上がったことがないそうです。 3.師岡城? 勝沼城? 埋もれた城です。 http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tokyo/Katsunuma/ |
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ダム?? | 自治会倉庫の前、霞川のなかに、堰をすることが出来る様に、川の中にセメントの柱が出ています。この柱と柱の間に板を差し込んで堰としたものです。 不思議なことに、堰をして貯めた水を分岐する水路はありません。田んぼがまだあったときは、水中ポンプで汲みあげたようです。 でも、改修前の霞川時代には分岐水路が有ったのでしょう。 また、 少し西側にある農林高校の田んぼの水路が、ここまで伸びてきており、水が落ちていました。今は、下水の側溝が残っている程度です。 師岡一丁目のほとんどは、田んぼだったのに、もう一部分しか残ってませんね!!! 他に、長寿園の裏のとこも防砂の為かセメントが入っています。ここにも、昔は堰があったようです。 |
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村有林 | バリューの北側あたり、師2の児童公園のあるあたりから東側のがけぞいに村有林がありました。 それを、手放したときに、その費用で、今の師岡会館を建設、また、師岡健康会を設立しました。 それまでの”寄り合い”は、個人の家か、師岡会館の北側の霞川沿いにあった、ぼろい小屋でした。 師岡会館で結婚式をあげた方も多いです。その後、東青梅に建設された福祉会館などで挙式されるようになってきました。 共同山というのは、何家かの所有する山でしたが、村で持っていたために村有林と呼ばれたものの様です。 ところで、師2児童公園の北側に一段と高い桑の木が一本立ってました。 |
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万里の長城 | どうも霞川沿いの話が多いですが、師1と師2の境の師1側のとこに三抱えもある大石を約50〜60個は使用している石積みの塀があります。 これは、クレーンも使わず。簡単な丸太の三脚とチエーンブロックなどを使い一人で築きあげたものです。 一見の価値あり! |
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南?北? | 古代はこの辺りも海で、青梅線がある平らな台地が出来たのでしょう 何度かの温暖、寒冷期間があって現在に至っているわけですが、その間に多摩川、霞川が蛇行しながら侵食していったわけです。多摩川の南側って傾斜のある山ですよね、北側は崖ですね。 霞川の南画側は崖、北側は傾斜のある山 つまり、青梅線のある台地は崩れにくい硬い大地 ということでは? |
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映画館 | 青梅駅に地下の売店があったんだって?(右の写真) 地下売店となっている。説明によると青梅傘のホテイヤ、川杉陶磁器店、呉服の福屋、食堂の喜久屋などが当時あったようだ。 確かに映画館が3つあったのを聞いた事ある。 「青梅キネマ」「青梅大映」「青梅セントラル」の3つ 「青梅セントラル」は東青梅の福祉センターのそば、「日本生命」のある場所、昭和38年頃に倒産。 「青梅キネマ」は承知の通り、青梅駅から永山公園へ向かっていく道沿い、住吉神社のそばの マンションの隣のゲートボール場の場所。昭和40年頃に火災で焼失。 「青梅大映」は青梅駅前の道をまっすぐ行って、駐車場の奥、仏具屋の奥の駐車場の場所、昭和45年頃まで営業していたらしい。 みんななくなっちゃったんだね。 |
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ボウリング場 | 東青梅の東京電力があるでしょ?あの並び、サイゼリアのちょうど反対側に「青梅ボウリング」あった。 福祉センターの隣の健康センターの場所にボウリング場があった。 野上のバリューもボウリング場跡の建物。総合体育館の場所は「青梅グランドボウル」 |
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飛行機墜落 | 桜株の交差点、畜産試験所のそばのオザムがあるあたりだーいぶ昔に自衛隊のF104ジェット戦闘機が墜落した。=>昭和40年前後に墜落したのって米軍機じゃなかったでしたっけ? 昭和40年ころの墜落の話はうろ覚えなので母親に聞いてみたところ、現場は桜株とドナルドソンの中間あたりではなかったかとのこと。 母親はパイロットが機から脱出するところも目撃しているそう。私はといえば畑に散乱していた機体の残骸を見た記憶がちょっとあるだけ。 米軍機が墜落したのは小曽木?黒澤?「京セラ」の近くでしょ? と、記憶があいまいです。 どなたか詳しい方、お教えください =>成木に落ちた 妻も子供のころに、戦後調査に来た米兵のジープに向かって「ギムミーチョコレート」まがいのことをしたそうな!!!! 戦後の輸送機の墜落の話は練習機の誤りで、黒沢と小曽木の境辺りです。 ちょうど京セラの前の川を挟んだ向かい側辺りかな? 物凄い煙でした、身に行ったのを覚えています |
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青梅鉄道公園周辺 | 「青梅鉄道公園」の前にあった「りき遊園地」覚えている? 「鉄道公園」の食堂車で食事が出来たの知ってた? (その食堂車は、もうありません) |
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お手植えの桧 | 勝沼神社の裏の市有地にあります。中には普段入れないと思う。 植樹記念の碑が立っている。青年の家のそばかな?鉄格子の引き戸がある奥だね。 今から50年以上前の昭和23年に第1回植樹祭で植えられました。 しかし、翌日だかに(いたずら、犯罪)で抜かれてしまいました。 昭和55年にもう1度昭和天皇が訪れた時には違う桧が育ってた? |
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つり橋 | 千ヶ瀬町の青梅街道から長渕に抜ける「下奥多摩橋」は昭和48年まではつり橋だった。 昭和8年に完成したつり橋は、現在の橋の少し上流に面影が残っています。 下奥多摩医院の前の道路を川のほうに入るとそれらしき跡が・・・ 千ヶ瀬町側の橋のたもとの信号を上流に入って最初の路地を側の方に入るとそれらしき跡。 ぜひ見に行ってください。 |
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吹上トンネル | 黒沢から成木に抜ける「新吹上トンネル」 江戸城築城に使われた白灰を運ぶ為に峠に切り通しが造られ 明治37年に「初代吹上トンネル」が完成、レンガ造りで現在も残っています。 その下を昭和33年に「2代目吹上トンネル」完成して大型バス、ダンプが通るように 平成5年にその下を「新吹上トンネル」が完成して現在にいたっている。 「初代吹上トンネル」の手前にあった「トンネル茶屋」では終戦直後に殺人事件が・・・ 「新吹上トンネル」に向かって上り始めて、道路右手を注意すると道路が・・・ その道路を登っていくとまた右手に道路が・・・「初代吹上トンネル」へと続く |
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撮影現場 | 「忍者部隊月光」が永山でロケをやってましたね。忠霊塔の辺りを走っていた。 「キーハンター」も青梅の採土場で撮っていたらしい。 宮ノ平の石灰採掘場跡で、よく仮面ライダーの撮影をしていた。 サイクロン号も排気量の違うタイプが2台あった。ベニヤ張りで けっこう粗末な造りだったのを覚えている。 工事中の松の木トンネルでも撮影していたよ。 立正佼成会の近くの山に「キーハンター」や「プレイカール」「子連れ狼」の撮影に来てね。 天寧寺は「隠密剣士」だったな、成木の安楽寺もいろいろ来てた。 |
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まぼろしの踏み切り | 東青梅駅のマルフジの裏の路地があるでしょ? あの道は線路を横断してセンタービル側につながっていたんだって! 早く言えば踏み切りがあったということだ。 そう言えば昔の商店の間の道とつながっていても不思議でない。 確かパチンコ屋が2軒あったはずだけど。 マルフジのそばの駐車場にもスーパーがあって、 |
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見世物小屋 | 昔むかし、住吉神社の階段下広場に見世物小屋が出て見に行ったことあります。 入り口にへび女がいて乳房が6っつの女性とかマジックとかやってました。 なつかし〜い私の子供のころの思い出です。 見にいった人結構いるとおもいます。この頃そいうのないね。郷愁・・・ |
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勝沼小曽木 | 勝沼の2丁目はほとんどが田んぼだった、なぜか青梅ガスのでかいガスタンクがあった。 勝沼2丁目は、「勝沼小曽木」って呼んでたけど、今はどうなのかなあ? 勝沼2丁目全域が(勝沼小曽木)って言ったかは定かではありませんが 知ってたところでは 鉄道公園に向かい坂の始まる所を 右に入る道から奥に向けてを(その区間だけを)勝沼小曽木って言ってました まあ子供心にどうでもよかった 気にもしてなかったけど 何で「小曽木」? なんでしょうね。 成木8丁目は北小曽木と言ってるし…、小曽木に関係あるのかな? たしか聞いたところによると…勝沼2丁目の古い家は、黒沢あたりから移り住んだ分家が多いとか。 黒沢のTさん家と勝沼2丁目のTさん家が親戚だと言うのも聞いたことあるし。 北小曽木はどうなんだろうね?KとかHと言う苗字が多いけれど、関係あるのかな? もうひとつ聞いた話だと、平家の落武者が勝沼2丁目あたりから山を越えて、成木8丁目に逃げ 白岩と言う地名あたりに移り住んだという。Sさん、平家、白旗、白岩…なんとなく… 青梅という地名の由来もその頃の平将門によるものだという言い伝えもあるから関係あり? 河童池って根ヶ布の天寧寺の駐車場になっている場所にあった沼のことかな? 現在の山門は無かったはず、仁王門に向かっていく道も、もっと上のほうで、右側にある高台のお墓のそばを 道が走っていた。仁王門あたりの駐車場は全て沼で、ザリガニが沢山取れたもの。 裏の池には近くの虎柏神社のご神体の白蛇が住んでいて、8月の例大祭の前夜に神殿まで移動するとか? いままでに白蛇を2度見ることが出来ました、裏の池に入って行き泳いでいました、これホント! あの白蛇はご神体だったのだろうか? |
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まだまだ、落ちてた飛行機 | 飛行機墜落の話がありましたが、ニ俣尾駅の西側の山に爆弾が落とされた 多摩川の南画輪の山にB29が墜落 東青梅駅では、機銃掃射があって怪我人(死亡者という説も) 昭和20年4月24日時間不明 現在の青梅市二俣尾5丁目平溝峠付近に米軍Bー29が空襲 5名爆死 昭和20年4月27日午前3時12分頃 現在の青梅市柚木町2丁目の「よしの保育園」向かいの山腹に米軍Bー29が墜落。 昭和20年7月29日昼頃 現在の青梅市東青梅 JR東青梅駅に停車中の電車を、米軍 Pー51ムスタング戦闘機が銃撃 少女1名が死亡 戦中の「立川基地」は陸軍航空技術部で、「福生(横田)基地」は陸軍航空審査部 だから近くに「昭和飛行機」「立川飛行機」などの工場があったんですね。 米軍の空襲があっても、迎撃で飛燕が飛び立つのは「調布基地」でした。 昭和20年なると立川基地からも体当たり特攻の特攻作戦が行なわれていました。 |
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立川1番線の怪 | 立川駅のホームは不思議である。どこを探しても1番線のホームが見あたらない。普通、番号を付ける時は1から付けていくのが常識であるが、2番線のホームから始まっている。駅ビルのルミネが拡張する前はもう一つホームが作れそうな空間があった。そこに1番線を作る予定でもあったのだろうか。 駅ビルが出来る前の古い立川駅には1番線が確かに存在していた。北口の改札口の西側に青梅線のホームとしてあったのである。青梅線の線路はそのホームで途切れ文字通りの終点であった。青梅線が私鉄だったころのなごりなのであろうか。立川基地に米軍がいた頃、燃料タンクを積んだタンク車両が西立川から暴走し、青梅線の電車にぶつかり大火事になった事もあった。 写真は、当時の1番線風景 |
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青梅第四小学校 | 昭和45年ごろは4小裏(醤油屋のへん?)は、小川がながれ、長閑だった まだそんなに家は無かった…田んぼだらけ。 台風のデカイのが来ると水浸しで、まるで池の中の橋のような道路。 道路も歩道がなくて穴だらけの舗装、道路の方が周りより高かったかな? その小川って、四小のすぐ裏(田んぼとの境)を流れていたんじゃないかな? 根ヶ布の方から成木街道の西縁に沿う用水みたいな流れがあって、それが東に向きを変えて四小の裏を通り、体育館のとの間を南下して霞川に注いでいたと思います。 本校舎の北側には、西から西便所(勿論汲み取り)・給食の炊事場・確か用務員室(不確か)・東便所と配置されていて、その北側が崖(段差)になってて、川が流れていたと思います。(S43年当時まで) 体育館が出来たので、木造本校舎の東端がぶちぬかれて、コンクリートの階段が作られ、小川を渡る廊下を通って体育館に行くようにしたと思います。 今は暗渠になっているように思いましたが・・・ 確か昭和40年頃にその小川の改修工事があったと記憶しています。 給食室も懐かしい…手洗いが暗ーい場所で、手の洗い方のポスターも記憶にあります。 用務員室に小遣のおじさんが居て、冬はだるまストーブの焚付けの薪や石炭を貰いに行きました。 そうだ!バックネットに一番近い教室が理科室で家庭科の調理実習をここでやったかな? その上の階が音楽室だった。 5年の何組だかの真下が職員室で、雨の日の昼休みに教室で暴れると、職員室に誇りが落ちて先生に呼び出されては叩かれた。 体育館のそばに新校舎があって、「つくし学級」と3年生が使っていた。 木造の2階建てでも「新校舎」って呼んでいたもの。 朝礼が終わって更新して教室に帰る時、つくしと3年生はいつもべつの方向に歩いていった。 4小農園が昭和60年前後にできた。田植えをして、お米を作って、 稲刈りしてごはんにして皆で食べたっけ・・・ お決まりで誰か必ず教室にお米まき散らしちゃうんだよね。 あの校舎の夕方の光景が好きだったな・・・ 昭和42年前後に模型飛行機を作って飛ばすのが流行っていた。 細い木と竹ひご、アルミニューム管で胴体と跳ねを作って紙張って。 学校の校庭でよく飛ばした。大会なんかもあったよね。 「SONY号」とか「ひばり号」、「赤とんぼ」なんてあったかな? A級、B級、C級まであってC級なんかは物凄くバカ高かった。 いまどきこんな遊びしている小学生はいないだろうね。 |
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多摩川 | 万葉集に「多摩川に曝す手作り(たづくり)さらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき」 と詠まれています。 ”たま”は”丹波(たば)”が語源があるようです。丹波とは、山の中や、上流にある小さな平地のことです。 丹波から流れてくる川で、多摩川と変化したようです。 水源は、笠取山で丹波川と呼ばれていたようで、江戸時代には、水源から青梅辺りを丹波川、中流の六郷橋あたりまでを多摩川、六郷橋「から河口までを六郷川と呼ばれていました |
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またまた霞川 | 霞川の話は色々と出てきますね! 今の青梅市検察庁、簡易裁判署の下のとこ 堰がしてあって 橋から飛びこんで遊んだそうです。 もう60年も昔・・・・ 四小の東側の方の暗渠 あれは、北側からの流れが合流しているのですが いつのころからか、暗渠が2本になっているそうです つまり、水量が多いと北側は溢れ出した・・・・・・・・ 今後、その方面の開発が進むとまた同じことが起り、日本で始めて、学校の下の暗渠が3本なんてことに・・・ |
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霞駅?師岡駅? | 昔 東青梅駅の周辺の土地を広く持っていた 山崎キヨとゆうおばあさん 駅を作るので売ってくれということに当初反対していたのですが 最後は、師岡駅という名にするならということで提供(無料ってこと) で、実際にできたら東青梅駅 約束が違うってんで裁判までしたそうです 結果は今のまま どうせ田舎だからそんなに混む駅でもないだろうってな安易な判断もあったようで 適当(?)な駅名にしてしまったようで でも、師岡駅の方が面白いな ある方より 霞村にあったから霞駅にというのは聞いたことがある。 漢字一文字の霞駅っていうのも面白かった。 |
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アッチャラシー | アッチャラシー とか オッチョロシー という方がいると思うのですが 恐ろしい の方言のようです。 鬼、悪党 とか言うのが すごい人 という意味があるのと同じで(昔、昔) 恐ろしい も すごい人 いう事だった |
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ミイラ堂 | あるBBSより 一部転記 30年位まえ、永山のハイキングコースに ミイラ堂と呼ばれていた?(かってに呼んでいた?)小屋があったの知りませんか?今は 太陽聖髪塔あたりかな?と思うんですけど・・・そもそも太陽聖髪塔ってなんなんでしょう?ミイラ堂との関係は??? 太陽聖髪塔のことじゃないの?何かお釈迦様だかの髪の毛が入っているという話聞いたことが あるけど。 そんな建物あったね〜。 小屋とい言うより小さな一戸建てと言う感じだった。 僕は1小卒だけど、仲間内ではミイラ屋敷と呼んでいたな。 中にミイラが安置されているなんて言ううわさが流れていた。 20年以上前に火事で全焼したよね。 たぶんその跡地に太陽聖髪教団が太陽聖髪塔を建てたのだと思う。 たしか塔の入り口にミイラに関する記述があったよ。 行って読んでみたら!? 太陽聖髪教団ってなに?やっぱミイラは あったんですか? 今度行ってみようかなあ・・・ |
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神様? | 正月でもないと神様のことを考えないでしょうが(正月でも考えない?) 農家だと色々と神様がいます。 畑神様 ; 畑に飾るので1月の間は畑仕事をしない お稲荷様 ; 商売の神様、昔、蚕や機織をしていた農家が多いのでお稲荷様も かまどの神様 ; 火を使うとこ 囲炉裏の神様 ; 火を使うとこ 便所の神様 ; 健康 井戸の神様 ; 健康 蔵の神様 ; 安全 天照大身神 ; 神様の真打(笑) |
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昭和2年 5月15日 雹害 |
このところ暖かい日が続き桑畑の良く茂り、養蚕にかける勢いが今年は違っていたとき。 昭和2年5月15日昼間は夏を思わせるような暑さで、午後3時を廻り畑仕事に疲れた体をあぜ道で休めていると、遠雷がなったかと思う間もなく五日市の方から真っ黒な雲が湧き出してきた。 たちまちにバケツの水をひっくり返した様な雨、雨、雨、 畑の真ん中では雨宿りする場所もなく、雷に怖がっていると、足元のあぜ道はたちまちに大河の様に、””ピカッ”と”頭上で雷が鳴った。”どおーーーん”という音が聞こえるよりも早く ばさばさばさと桑の葉がが音を発て破けて、破けて行く。 一瞬何が始まったか判らず。”痛い” 顔に頭に体に今まで見たこともないような赤ん坊の頭ほどある雹が・・・・・・・・・・・・ 気がつくと、一尺(30cm)にも積もった雹で自分の足も埋まっている。周りを見ると桑畑は葉はもちろん桑の木も裂け無残な姿に、 夕刻に溶け始めると、水温0度水から妖気の様な湯気をあげ、雹同士がゴロゴロと地獄の釜の開く音を響かせ、ヤスリのごとく地面を削ってゆっくりと胎動していく、行く 翌日は、一面氷の田畑となってしまい、稲の苗はその成長をやめてしまった。 今年の養蚕は、秋には新米がとれるだろうか、 お盆を迎えることができるだろうか、そして、正月が迎えることも、来年まで生活して行けるのだろうか。 以上は、新町の御嶽神社にある”雹被害碑”を見て創作した当時の様子 雹被害碑 御嶽神社の大鳥居を入って左奥に建っています。 正面一番下に 霞村 新町 真ん中に 雹被害記念碑(と読めます) その上に 昭和二年五月十五日 そして、一番上にソフトボールより大きめの丸い石が鎮座、この大きさの雹だったそうです。 裏面には 一番下に 青梅村 石工 藤堂音二郎(二郎が平とも読めます) 一番上に 昭和三年三月建 時間的なことから推定ですが 昭和2年5月15日に雹被害に合い、新町、霞村の養蚕、稲作を主とする農産は全滅 全村の有志がすぐに行動を起こし、災害対策事業を政府(国?、東京?不明)受けることができ、 翌年(昭和3年)には対策事業が開始 その記念碑として新町の地にこの記念碑を建立 当初は、御嶽神社から南に向かう道のどこかに建っていたのではと、区画整理で道が広がるときに移設(道に建っていたという古老の話から推定です) 対策事業は昭和4年に終了 師岡町1丁目にどうつながっているかと言うと このときの対策事業で、それまではあぜ道程度であった道から(今の道と場所が違う) 妙光院の前から東に延びる大通りに 妙光院のすぐ東側の山をくづして切り通しにして吹上に通じる大通りに 昭和4年に工事終了(推定)、その後、区画整理によって今の道になったものです。 この対策事業では文字通り女子供まで出て作業に参加したそうです |
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道路建立の碑 | 上記に続いて石碑シリーズ
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武蔵の国 石動神社入口 |
石碑シリーズ 青梅第四小学校近く、”武蔵の国石動神社入口”の碑 (ネット地図参照) そう言えば、ここに昔、青梅ガスのガスタンクがありましたね。 |
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東京炭鉱 |
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間違い? |
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ミドリ橋 | 聞いた話ですので漢字がわかりませんが”ミドリ橋” 場所は、妙光院の門前を出て道路を渡って今は中川と呼ばれている”名もない川”に架かっていた”ミドリ橋” もしかすると場所は違う可能性もあります。 昔昔、妙光院の盲目の方丈さんが居て、毎日、その橋まで往復したそうな | |||||||||||||||||||||
青梅・奥多摩戦争遺跡フィールドワーク | 青梅・奥多摩戦争遺跡フィールドワークhttp://www.satoyama-club.jp/inaishi/2005senseki.htm | |||||||||||||||||||||
あえて | あえて独断と偏見で 師岡城(光明寺〜妙光院あたり)から東西南北をみると 北(子);吹上しょうぶ園から青梅ゴルフ場の手前あたりの 小高い山の山頂に小さな祠、北の守り神 そこより東側の吹上神社は、北東からの進入を防ぐため の兵の集合場所としてあえて候補外 北西(戌亥);諏訪神社 白蛇が守り神 西(酉);石動神社 石が動く!!!!! 光明寺の西に師岡神社があるが、城内なのであえて候補外 南西(未申);大塚山の南面にちいさな神社が 大塚だよ塚=ピラミッドか? 南(午);六万通りのとこに六万薬師 薬の神様! 東南(辰巳);師岡会館 元来は、愛宕神社・准肱観音、馬頭観音 妙光院の管理地でもあります 東(卯);春日神社 祭りで獅子舞をするくらいですから 五穀豊穣、復活がテーマ 北東(丑寅);塩舟観音 鬼門なので仁王門が お祭りがあるのが 鬼門の塩船観音 戌亥の諏訪神社 午の六万薬師 辰巳の師岡会館 卯の春日神社 |
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